春や昔の春ならぬ

変わりゆくすべてに袖を濡らすブログ

秋の夜長にネガティヴ地獄

高校生くらいまでは本当に本が好きで、それこそ小学校の図書室の本は全部読んだし、中学校のときも1日1冊読んでいた。
それが、いつの間にか、というか一人暮らしの自由とネット環境を手に入れてからあっという間に本から離れてしまって、本にまみれて死にたいなんて思ってたのに、こんなにも人は易きに流れるんだな、っていうか、もしかしたら本当は好きじゃなかったのかもしれないなんて思ったりもする。
その分、大学時代は映画をたくさん見られて、それはそれでよかったのだけれど。

社会人になってからはさらに偏食が進んで、大好きだったミステリも読まなくなった。
「共感できる環境」の小説しか手にしなくなっていて、なんだか自分がものすごく小さな人間になった気分。

去年、留学生の女の子(オランダ)とともだちになって、彼女は日本文学を専攻していたから必然的にそういう話が中心。
すごく楽しかった。
久しぶりにあんな熱量で源氏を読み返したし(円地源氏)、彼女の好きな和歌を、わたしならこう英訳する、とか、毎週のようにスタバで話してた。
彼女から、どうして人は物語を読むのか、というテーマで話さない?と言われたときのことが忘れられない。

最終的にわたしたちは、
人間にとっての普遍的なテーマがなにか、またそれとどう向き合うべきかが示されている、
という結論を出したのだけど、お互いに母国語じゃないからわたしも彼女も、言い表せないなにかを明らかに持っていて、それが言葉にできないのが残念だね、とも話した。
だもわたしは、もっと個人的な理由で読んでるなって、そのとき思ったの。

一人っ子だし、好奇心も少なくて行動範囲も狭い、人見知りなわたしは、小さい頃から絵本がともだちだった。
絵本の中では、わたしは賢いお姫様だったり、勇敢な男の子だったり、何にでもなれた。
そしてそういう行動をする人の背景にあるもの(動機とか気持ちとか環境とか)を知ることができた。
多分、小説を読むのは、この世で自分が成り得ないものになれて、自分では生き得ない人生を生きることができるからなんだと思う。
だから本が大好きだったのに。
読みかけて閉じた本の中で、その本の中で生きてる人たちは今なにをしているんだろう、とか、昔は考えていたのに。

そしてこうやって、この彼女に、せっかくまた本に親しむ機会をもらったのに、また日々に追われて離れたままでいてしまう。
今のわたしはもうファンタージエンにはきっと行けない。
そんな風に無性に寂しくなった秋の夜。



ちなみに、その日の帰りに、何気なく、
「日本人でもあなたみたいに源氏や伊勢について知ってる人はなかなかいないよ」
と感嘆のつもりで伝えた。
喜んでほしくて。

でも返ってきたのは、それはそれは悲しそうな表情で、
「バカなの?日本人バカなの?アニメの前に知るべき文化がここにあるだろバカなの?」
みたいなことを、ひとしきり嘆き続けてた。

日本人がデフォルトでアニメ好きなわけではないし、あなたにとってはそもその日本語が外国語だから古語はその派生みたいな位置づけで、われわれにとっては古語はもはや外国語だからものすごい距離感なんだよ、とは説明したけれど、こんなに世界中に知られた古典があるのにそれを日本人の方が知らないっていうのはどうかと思うってぷりぷりしてた。
じゃあ、英国人はみんなシェイクスピアテニスン読むのって話だよって返すと、わたしは読んだ!いや、あなたオランダ人でしょっていう。
彼女は恋をしていて、百人一首の中で式子内親王の「玉の緒よ」がいちばん好きなんだけど、いちばんって言えるのは当然百首全部覚えてるから。
わたしは、「茜さす」と「これやこの」、「由良のとを」、「瀬をはやみ」が好き。
だけど国文出ていながら百首を空で言えない。
きらきらしてる彼女の前で、すごく申し訳なかったし、切なかった。

本当に好きなら、好きって、パワーが要る。
そのパワーが生き方も変える。

好きなのに、わたしはパワーが出せない。
あったのに。

物語の中の人なら、これがターニングポイントになって変われるのかもしれない。
現実世界の人だって決意次第で変われる。
ていうか、変わりたい人は、全てのことを自分の心次第でターニングポイントに変えられるんだ。
だけどわたしは変われない、全然成長できない。
物語の中の人たちになりたいと憧れながら実際にはなにもできなかった、しなかったわたしのまま。